誰のためのドキュメンテーションか

ドキュメンテーションという名前で呼ばれている記録伝達方法ですが。

ただの日記ではない。

 

子どもにも、保護者にも、保育者にも、地域にも役に立つ。

 

そこに保育という流れがある

子どもを観察する

保育者が記録を取る(⇒記録を参考にしつつ活動を発展させる)

記録をまとめる

記録を公開する

記録を見る

記録を振り返る

子どもが活動を振り返る

保護者が活動を知る、話題を得る

地域の方々見る、園がそこにあリ、学びが展開していると気づく

保育者たちの学びは、何重にもなっている

 

(ドキュメンテーションを作成しようとおもいながら)

記録をとっていると、漫然と保育をすることが減り、鋭い視点を持つことが増える。ドキュメンテーションをつくるための保育ではないが、作ろうと思いながら保育をしていれば、学びを見つける視点をもつ努力につながることが増え、保育者の成長につながる。また、他の保育者の視点と自分の視点の差を発見し、視点が増える。

 

他者の視点を自分のものにすることは一朝一夕にはできなくても、少なくとも他者を認めるきっかけにはなる。

 

自分よりも経験の浅い若い保育者の視点が面白い。

未熟な視点も多いのだが、彼らがそれまで気づいていなかった子どもたちの成長に気がつきそれを喜んでいる姿は、保育者としての成長として肯定的に捉えられるべきだろうと思う。


ベテランならではの視点もあり勉強になる。

ベテランの視点は、それまでの経験の蓄積によるものであることも多く「文書で残したらいいのに!」とも思わされることが少なくない。また、ベテランにとっては「当たり前」の子どもの姿もあえて記録に落としてもらうことで、他者には「こういう視点で子どもを見ているのか」という学びにつながり、また本人には書くことで他者から質問を受けることなどで、新たな視点の発見につながることもある。

 

当然、特に第1子を育てている保護者にとっては初耳のことも多く、保育者との話題の提供にもなり、園の円滑な運営にも役に立つ。

 

子どもたちも自分たちの様子を知らせる物を手にとれれば、振り返ることもできるし、話題にもなる。過去分をファイルに入れて教室におけば、いつでもだれでも振りかえることができる。

 

地域への公開についてはプライバシーの問題などがあり、躊躇する向きもあるだろうが、こういった記録は作ろうと思えば、人物特定のされるような顔の写真は使わなくても作れるトピックのものが沢山あるので工夫したらいいと思う。

  

イタリアのレッジョ・エミリアから取り入れられる様々な価値観や観点には興味深いことが多いが、私は個人的にはレッジョの真髄は、「保育者は研究者であれ」という考え方だと思っている。たしか、どこかでそうマラグッチが言っていた。

 

研究者であれということは、「研究論文を書け」ということや、「博士号を取りなさい」、ということではなく目の前の出来事を広く相対化して捉えなさい、そして考え、想像しなさい。と言われていると私は思っている・・・。

 

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こういう手法は以前から日本にあるとか、いろいろ意見はあるのでしょうが。役に立つ手法ならその辺りは厳密に分類する必要はあまりないと思います。特に現場では。

(輸入品‥逆輸入品の持つ日本人への訴求性の高さということを鑑みれば逆輸入でも、ホントは輸入したんでなくても、そういうキャッチは有効に良心的に使えばいいと思いますけどね!)