小学校の再現劇

小学校1,2年生の時の担任のK.I先生


教室に白いベンチを持っていました。


3人がけくらいの、木で出来たものだったと思います。


そのベンチと一緒にいつも思い出すこと。


喧嘩をした二人をそこに座らせて、喧嘩の再現をさせるのです。


今から約30年前のことです。


10年位前アメリカで保育をしていた時には、そういう話し合い用の椅子(概ね向かい合わせに配置された椅子)を用意しているプリスクールもありました。


教科書にものっていたような気もします。


でもなんだか思うのです。


向かい合わせじゃなくて、横に並べるあのベンチ、偉大だったなぁ。


って。


喧嘩の再現をして、落ち着いて第三者的視点を持って、相互理解や解決に持っていく。


横向きに座るので、クラスメイトによく見える配置。結構なお年の女性の先生だったので、「恥を知りなさい!」っていう視点もあったんだと思いますけどね。





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なぜ教育に興味をもったの?④

 

興味が有るのは教育というか、学ぶ・学びということ。。

 

教育者の思いと、学習者の思い、かみ合わないことが多いな。

 

自分が学習者だった時、色々考えました。

 

そして気が付いたら今ここにいます。

 

 

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なぜ教育に興味をもったの?③

高校時代は余り印象にありません

 

高校の環境にアジャストすることで結構な時間を使ったような気がします。

 

その後、大学へ進学。以下、思い出。

 

*教授が「教科書を買わせるために試験をする」と発言することに愕然とする!!

 

*国際私法の先生の教授法に興味を持つ。

 

*債権法を死ぬほど勉強(本当に難しかったので本気で勉強しないと単位がとれなさそうだったため・・・)

 

*食堂の椅子がant chair風の椅子になった

 

*後の我がゼミの教授が自らゼミ員募集のビラを配っていた

 

その後アメリカの大学に交換留学。

 

そこで、衝撃の教授に出会う。

この教授との出会いが私がそれまでうっすらと興味を持っていた「学ぶ」「教える」を考えるスイッチとなる。

中国語のKe老師。

 

この人は教えるということをかなり研究している人だと感じた。

教える内容を分析してそれがよく受講者に入っていくように工夫していた。

もともと語学学習は好きだったのもあったが、10ヶ月間で会話やヒアリング力は日本の大学で中国語を4年間学んだ学生より断然高くなっていた。日本に帰国後それに気が付きKe老師の凄さを実感。

 

中国語は余り使っていないので、ほとんど今は話せないが又あの先生に教えてもらえばすぐに話せるようになる気がしている。

 

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なぜ教育に興味をもったの?②

前回は、児童館での出来事を書きました。

 

そこでの出来事は私に大きな影響を与えています。

でもこれを認識したのはおとなになってからでした。

アメリカで通っていた学校の授業で、人生を振り返るという授業があってそこで気が付かされたのでした!

 

さて。

 

児童館の後、というか、幼稚園の後、ですね。

(正直言って幼稚園のことは余り印象にないのです。嫌ではなかったし、毎日通っていました。ヒヤシンスを育てていた思い出やお弁当を食べたことや、園長先生が竹箒で掃除していたことなども記憶にはっきりとあります。でも、今思うとイベント、行事に追われているような園だったなという感じです。だから印象が薄いのかも。)

 

その後小学校に入るのですが、そこが教育系の大学の附属の学校だったことが私の教育観を大きく変えました。ただ、入っただけで気がついたのではなく、小学校、中学校とそこで普通に教育を受けた後に、附属ではない全然関係のない高等学校に入学した時に気がついたのです。

「あ〜、これまでの9年間は特別な9年間だったのかもしれない」と。

 

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なぜ教育に興味をもったの?①

「どうして教育分野の方へ来たのですか?」とよく聞かれます。

 

いくつか理由はあると思うのですが、大きな理由の1つは自分自身が受けた教育の影響です。

 

一番最初の集団生活は多分家の隣の児童館。

実家の隣にあったので毎日のように行っていました。そして、年中からは幼稚園へ。幼稚園時代も、幼稚園よりも帰ってから行く児童館のほうが楽しかった思い出があります。

 

その頃の児童館は、(というよりその児童館は、ですね)なんでもあり!の場所でした。なんでもありというのは、責任を持たせてくれるところだったということです。先生たちが子どもを信頼していた、といえるかもしれません。そして、それは個人の責任論というよりも、仲間といることで小さい子の面倒は大きな子が見る、ということだったと思います。だから、小さい子がなにか一人で責任を追わなきゃいけないってことではなく、かといっておかしな連帯責任でもなく、いい塩梅でバランスと保っていた場所でした。

 

そんな日々の中、なんといっても面白かったのは

庭に職員が勝手に2階建ての小屋を建てて市から怒られたり、

鶏をさばいて食べて非難の嵐を浴びたりしたこと。

 

庭で毎日ドラム缶でゴミを燃やしていたのもいい思い出です。そこで、「髪の毛を燃やすとタンパク質が燃えて臭い」、などと教えてもらったのを覚えています。

 

パワフルだった名物職員が2−3名いらして毎日がとっても楽しかったことを覚えています。

 

親の協力もかなりあり、「父ちゃん会」という会が楽しそうでした。今はもう無いそうなんですが、週末誰かの家で父ちゃんたちが集まってワイワイ飲んだり、いつもの週末は忙しい父ちゃんでも、イベントのある夏祭りなどは絶対に屋台を出してくれたり大活躍の場でした。

 

とてもいいコミュニティでした。

 

それも私が中学生か高校生くらいの時に消滅していったようです。

周りにマンションが立ち始めたのと同じ時期ですね。そして名物先生たちが引退や転職をしていった頃です。

(多分、市から厄介がられていたんだと思います。)

 

この名物先生たち、

T先生、H先生、K先生、U先生。みんな名前覚えています。

そして、私の親のほうがよく覚えていて幼稚園の先生の名前はいまいち覚えていなくてもこちらの先生方のことは鮮明に覚えているようです。ワタシもです。

 

長くなりそうなので続きます。

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