「全部食べましょう」モンダイ

日本の教育現場において「全部食べるのが褒められる場合」がいつなのかについてですが。


「今日はこれくらい食べられそう。」と自分の身体と相談して、

「適度な量を盛って、」

それを全部食べた時に、

「自分の身体のことをよく知ってたね!」

とポジティブな反応が返ってくるっていう理解でいいんじゃないでしょうか。


もうちょっというと、「今日はランチのあとでさっきのお絵かきの続きしたいから少なめに盛ろう」とか、「昨日の夜のメニューと一緒で飽きるかもしれないからちょっと少なめにしよう」とか、「主菜が好きなものだけど他の人も食べたいだろうから、主菜はこれくらいにして副菜を多めにもらおう」とか。自ら判断すればいい。


「ちゃんと食べないとあとで泣いちゃうから」「不機嫌になっちゃうから」。わかります。子どもによってそういう子いるから。でもそれはそれで、周りの大人がわかっている上で放っておいても子どもは育つ。乱暴な言い方かもしれないけど。「そっか、さっき食べなくてお腹すいちゃって、悲しくなってるのかな〜?」「昨日食べないで後でお腹すいたって言ってたけど今日はどうするの〜?」と一対一で話せばいいじゃない。そういうリマインド(批判ではなく)があればそのうち学びますよ。


子どもを知らない、配膳係の人が全クラスに画一的にカロリーを計算しただけで盛ったものを無理やり完食するのが正義と言われても納得しかねる。気分悪くなって後で吐くみたいなことが起きるまで食べるのを褒められてもね。


「今はそういうのなくなりましたよ〜」というのをよく聞くんですけど、確かに聞くところによると小学校ではほぼなくなっているようです。

でも、幼稚園や保育園はそのへんがまだいまいち。

小さな子どもたちは、「まだ自分の適量がわからないから。(だから泣いても無理矢理食べさせます)」が通るところがある業界です。


「完食させられる保育者がいい保育者」という価値観が根強く残っています。「全部食べられると異常に褒める」という保育の「伝統」もあります。「頑張って食べる」という謎の言葉が常識的に存在します。


「食育」という名の無理強いが横行しています。

「いい保育園ではしてない」と言われるかもしれない。

あたり前。そのいい園に含まれない方の園に入っている子どもたちのために何ができるかを考えて欲しいです。

しかも、「良い保育園」の定義は保護者と研究者や現場の先生たちで全然違っていることが多々。

(無理矢理泣いてでも全部食べさせていても)「完食しました」の文字が大好きな保護者もいますから。

「おかわりしました!」については好きな保護者も嫌いな保護者もいますけどね(笑)


お皿に載って出てきたものは無理をしてでも残さず食べる、という文化は今の時代にふさわしいのかな?

残すと怒られる飲食店等ありますけど恐怖です。その場で出てきたものが口に合わなくても無理やり食べるということで、食べきれるかわからないですからね。その戦々恐々ぶりに毎日耐えている子どもがいるかと思うと不憫です。


感覚に影響が及ぶ障害があって、特定の食感のものしか食べられない子に無理矢理食べさせることなど本当に涙がでるほど嫌なことです。


食べるものや食べる場所、食べる相手などがほぼ自由に選択できる時代です。食べ物が自由に選択できなかったというような時代背景を持つ人達がその背景を保育の現場に持ち込んでいまの「常識」ができたのだとしたら今の人達は今の人達でちゃんと自分たちの生活様式を少しは取り入れようか、と議論をしましょうよ。


個人的には最初から「今日は少なめでお願いします」とか、レストランでも一言「一皿の量はどのくらいでしょうか?」と聞けるような能力を持っているようがいいと思いますけど。


考えたいものです。